ポエム コロナウィルスに思うこと

多くの人間は、本当にやるべきこと成すべきことを実行出来ない。人の集団、社会的、そして国家も同様である。

 

 

コロナウィルス感染を食い止めるために、人々は生活圏を狭めなければならない。しかし仕事のためにそれが出来ない人がいる。遊びたくて外に出てしまう人がいる。上記の2例は、本来同列に語って良い事ではない。しかし結果は同じ、即ちコロナ感染拡大を招く。

コロナウィルス感染を食い止めるために、国家は必要な政策をうたねばならない。しかし利権のために、それが出来ない国がある。このご時世の混乱の最中、どさくさに紛れて国際政治の駆け引きを行う国がある。上記の2例はその国にとって必要なことだったのかもしれない。しかしいずれも同じく、その国の今を生きる国民にはこれっぽっちも役に立たない。

 

 

目の前にある、今なすべきこと、それは茨の道を歩むことである。しかしその脇に、魅力的な果実を付けた果樹がある。ある人はそれを鼻で嗅ぎつけて、目で見て、舌で味わう。ある人は蠱惑的な囁きでそこへ誘われる。やがて人々はその魅力的な果実の虜となり、さらなる刺激を求めてその果樹園を彷徨う。有史以来の人間の愚かなのは、果実を口にして、素っ裸なことに気付いても恥じなということだ。

だが、本来私達が臨むべきは茨の道であって、その道の終点、荒涼とした丘の頂きで全ての罪を背負わねばならない。数少ない聖人がこれを成し、迷える羊達を導くのだ。

しかし、大半の人間はそれが出来ない。彷徨える人は、やがて楽園から追放されて、やっと自らの犯した過ちに気付く。そして、彼らの原罪を肩代わりしてくれる救世主の登場を、その愚かなる知を持って祈り待つのである。

 

 

身軽な個人に比べて、国家という巨大なゴーレムは、のろまで、しかも慣性で無駄に動いてしまう。そのくせ鼻と目と口が足先についてるから、果樹園に迷い込みやすい。ゴーレムの足は茨の道も、その先にある丘も、果樹園でさえも蹂躙する。足の細かな傷口から、知恵の実の果汁を吸い取ってますます小賢しくなる。しかし、いくら賢くなって自らの罪を自覚しても、既に救いの場は自らの足で台無しになっているのだ。

 

 

私は愚かだから、祈るしかない。